最近更新をご無沙汰しているのは、物理的に忙しいということもありますが、なんつうか、「言葉の力」に幻滅してしまったのですね(世の中、結局、声の大きいもん勝ちって気がする)。
それで、ココロは奴隷といっしょに海の底に沈んでいるときに、カラダのほうは授業でポルノまがいの小説読まされてて(って、自分が選んだテキストだけど・・・かわいそうなのは学生たち)、3月締め切りの原稿が終わったら下品なクレイシおじさんとはすっぱり縁切ろ、と決意しました。The Buddha of Suburbia ってありていに言えば、「セックスに取り憑かれた男子がさんざんやった挙句にそのばかばかしさに気づく」教養小説(?)です。 主人公カリムはバイセクシュアルで、「男か女か選ぶのはビートルズかローリング・ストーンズか選ぶのと同じくらい難しい」んだそうで、言いたいことはわかるがしかしキミ、それってたんなる「選択の自由」の問題(選択肢が増えれば増えるほど幸福?)なのかね?
昨日の Juliet Flower MacCannel 先生講演会@吉祥寺では、そういうお下品な日常から離脱できて、ほんとによかった。フヒト先生とN山さんのレスポンス論文に関しては、難しすぎてその場では消化不良でしたが(お2人が天才だという事実だけは再認識しましたが・・・いただいた原稿はPDF化して永久保存し、今書いている論文が終わったら、熟読します)。
マッカネル先生のお原稿は事前にいただいていて(それが「質問要員」という意味だったとは知らず、焦りましたが)、それで原稿読んだときの感想は、ラカンのジョイス読解の中で、ジョイスにおけるアイルランドの英語・ゲール語問題というローカルな話題と、ラカンの普遍化された言語理論とが、どういう風につながっているのか、結局のところよくわからないなあと思っていました(さらには、なんでウルフの『波』だと『フィネガンズ・ウェイク』みたいな「開かれた自我」ではないのか、そもそも『フィネガン』ってほんとにそんなにエライのかなあ、と不審に思ったりしてました)。しかし、質疑応答の過程でなんとなくわかってきたような気がするのは、マッカネル先生がやろうとなさっていることとはつまり、アイルランドにせよ女にせよアフリカにせよ移民にせよ、そういう(通常は規範的ではない)立場からふたたび普遍性を思考すること、なのではないかと。アイルランドとか女とかアフリカとか移民とかの話を持ち出すとすぐに「差異の承認要求」みたいに思われて、だから「パネルにはとりあえず1人女を入れとけ」とか「とりあえず移民を扱うチャプターが1つないと」みたいな発想になって、それでアリバイを作ったら後は今までどおりのユニバースに安住してられる、みたいな感じになりがちなんですが、そうではなくて、アイルランドや女やアフリカや移民こそが普遍へのパッセージかもしれないと考える、そういう発想の転換、(経験則で言うと)やっぱ男の人には難しいみたいですね。